AIセミナー東京旅3/4(史跡を訪ねて編)

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東京神田、大手町、有楽町にはかつての江戸とそれ以前の史跡が多数存在します。例えば有楽町駅の名前の由来は、織田有楽斎の屋敷があったことから。
少し、歴史の知識を動員してこのブログをかきます。

■大久保彦左衛門館跡
お茶の水の明治大通り沿いにあります。神田の仕事先への移動中に発見。
大久保彦左衛門屋敷跡
大久保彦左衛門屋敷跡 現在は杏雲堂医院の敷地にあります。確かに明治大学通りをまっすぐ下れば皇居(江戸城)です。

皇居脇をかすめる首都高の高架下の桜
皇居脇をかすめる首都高の高架下の桜 細い花びらでした。

■将門塚(しょうもんづか)
神田錦町の仕事先(ちよだプラットフォーム)から首都高をくぐり10分弱。当初神田から、神田駅まで歩く予定でしたが、大手町方面へ。
平将門とは
平将門とは 桓武天皇から4代くだった平姓を名乗る武将。千葉県佐倉市あたりが本拠地といわれています。同族に奪われた土地をとりかえして
自ら関東を平定したのち、新皇を名乗り当時の朱雀天皇に反乱を起こす。これを平将門の乱といいます。

将門は当初、合戦を優勢に進めますが、勝利のあと、部下を故郷に返して少人数となったところを反撃にあい、将門は軍の戦闘にたち奮戦します。当初は風が味方して相手の大半を蹴散らしますが、風向きが変わり劣勢となり、そのときに矢を額に受けてなくなります。将門の首は平安京にて晒し首にされますが、空を飛んで、この地におりてきたとか。

同じころに貴族から海賊になった藤原純友の乱が瀬戸内海であって2つまとめて「承平天慶の乱」といいます。

将門塚は三井物産の敷地近く
将門塚は三井物産の敷地近くにあります、大正12年大蔵省(財務省)のビルを建設しようとしたときに、多くの方が亡くなったり、かつ、太平洋戦争後、GHQが土地開発をしようとしたときもブルドーザが横転したり、さわりがあったことから、首塚は取り壊しや移転を免れて残ることとなり、現在でも毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりである。

将門塚
将門塚 この日も数組ずつ途切れることなく来訪者があります。ここは供物禁止なのですが、以前は「京都から首が飛んで帰った」という故事にあやかり、誘拐された親御さんが子供が「帰る」という意味で供物を置いたらしい。

ここから10数分あるけば東京駅です。